| NO.922235 ・ラインハート優しい時間さん(男性/60歳)
 2017/11/17 12:59:46
 
 | 興味深いテーマだったのでオヤジも参加を。。。 
 世の中に形而上であれ形而下であれ、「絶対」というものはないと思っています。ただ、「生き方」においては、「確信」はあると思ってます。
 
 人は思念と目標が結びつかない限り、そこには達成感はないと考えます。
 その意識がなくては、こころは漂流し、絶望がまっています。
 
 ある目的に向けて「必ず凌駕してみせる!」という信念があれば、きっと猜疑心や恐怖心から解放されると信じてます。
 
 そこで問題なのは、人とは常に「自己愛」に感化されやすい生き者なのですね。。。利害、損得、是非。。等。そこに全ての「元凶」があります。
 
 言い換えれば、人の「こころの成功」とはその自己の「欲望」や「傲慢さ」をかなり捨てて、犠牲にしないとなりません。
 そうした欺瞞が過失や失敗を招く要因だと考えます。それこそが直接的な原因だと。。。もし「そこ」から快豁するならば、そこにはきっと「調和」が生まれてくると思います。
 
 『幸せ』というものは、全てその者の内面から育まれるものだから。。。
 
 自分も環境もどちらも全て、自分自身のものなのですね。
 そこでバランスの不合理が及べば、必ず、その調和の欠如によって物事はおのずと崩壊に向かっていきます。
 これは個人の調和というよりも「宇宙」の原理だとも言えます。
 
 それを達観した時、初めてこころの平和を感じることが出来るやもしれない  。
 
 「本当の幸せ」とは、そこから起因するものだと考えます。
 もし、現世において、「永遠の穏やかな海」があるとするなら、そこには嵐も地震よる津波もいかなる悪疫も及ばないこころの静寂なんだと思います。
 
 世の中の判断の多くは、大抵『点』で行われていように感じます。
 でもその「点」を繋いで『線』に導く。。。そこから意識を拡大させて『面』となす。そして尚、より向上において『立体』となすべしと。
 
 オヤジは「点」で生きている人が嫌いである。つまり自己中(傲慢)な方。
 でもね、上記のように「立体」を志せば志すほどに酷目に遇うのも事実。
 それもまた人生の困難な理由でもある。でもそこから逃避しないことの覚悟で己のアイディンティーは向上もする。人品骨柄として。
 そこにホンモノの「愛」が存在するものだと(それこそ決して偽善者でもない)。
 
 でもね、相手に気持ちを汲む、慈愛を持つことの確なる根本は、やはり最初に「点」ではなく「線」で捉えることからしか始まらないのですよ。
 
 まず、そのような自分を見据える既得感を持つことで、その先に「しあわせ」が待っているのだと信じます(本当のしあわせとは富や名声にあらず)。
 
 「人生はその者の考えた所産である」ということです。
 
 そして「意馬心猿」なる心からの解脱にこそ『こころの平和(本物の愛)』が存在すると思ってます。。。オヤジもそのような安楽死を迎えたい!(笑)。
 
 私もまだ、その道程にあり。。。まだまだ未熟である。
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